”リスクを伴わない信用は、もはや信用ではない”と僕は考えています。
他者に深刻な悩みを相談する際にも、面白おかしく 不特定多数に吹聴されまくるリスクが存在しますし、親友や恋人を自宅に招きいれる際も、物を盗まれるかもしれないリスクが存在します。
しかし、その相手をしっかりと信用しているからこそ、このようなリスクを承知で接することができるのです。
不審者に対する自衛策は学校で教わるが、国や企業を疑うことは 教わらない
学校などで 教育の一環として、不審者などに狙われた時の対処法は教わることはあります。
「人気の無い夜道を歩かない」「防犯ブザーを携帯する」など・・・。
しかし、日本という国や 企業に対する”疑いを持つこと”を教わることは ありません。
なぜなら、学校の教育内容は日本政府が制定しているからであり、当然 疑われない方が 国民から効率的に搾取しやすいからです。
つまり 国民は、立場が上とされる者を疑わず、盲目的に信用する様に、学校という強制的に通わされる機関を介し 日本国家に調教されているのです。
他人を疑うと、人格を否定される
長年、学校という教育機関の中で生活していると、当然 嫌いな人間や信用できない人間も たくさんいます。
そんな人間を信じるなど、危なっかしくて とてもできません。当然、そんな人間と接する場合は 細心の注意を払い、被害を受けないようにすることが必要不可欠なハズです。
しかし、教員は そんな生徒に対しては「他人を疑う事=悪」であるかのように 生徒の人格を否定します。
当然、教員は 内申書という 生徒の進路を大きく左右する書類を書く権限を初めとして、生徒に対し”デメリットを与える手段”を 複数 持っています。
例えば ”内申書に悪評価をつける”という多大なるデメリットを遠まわしに言われ プレッシャーをかけたりされたら、結局最後は 生徒が折れるしかないのです。
そして、「みんなと仲良く」「困っている人がいたら、誰であろうと助ける」 などと、管理する側にしたら 面倒事が回ってこなくて 手間が少なく とても扱いやすい人間の思考回路を、長い月日をかけて 植えつけていくのです。
疑うことは、絶対不可欠の”自己防衛本能”
自宅や車のキーも、ありとあらゆる暗証番号も、他人に対する疑いの下に 存在しています。
もし、他人を疑わない人間であると知られたら、たちまち 悪意のある者たちが集まり、メリットを奪い デメリットを押し付けてきます。そして やがてはあなたの大切な人間にまで迷惑をかけてしまうでしょう。
つまり、他の人を疑うことは断じて”悪”ではなく、自分自身を守るために欠かせない”自己防衛本能”です。
信用することは ”投資”と同じ
信用するということの本質は、”投資”であると考えています。
ある程度の利益が期待できそうな投資先に大切なお金を投資する様に、優良そうな情報商材に お金を払う様に。
そのリターンとして ”より多額のお金”や”有益な情報”となって返ってくる可能性が高いからこそ、お金を払うというリスクをとるのです。
ビジネスではない、プライベートな付き合いである親友や恋人でも同じです。
信用をするリスクをとるからこそ より深く密接に付き合うことができ、”心が満たされるというリターン”を得ることができるのです。
なので、他人と接するときは「信用に値する人物なのか」「どの程度まで 信用するべきなのか」を見極めることが重要です。
他人をカンタンに信じる行為は、我が身を滅ぼす行為なのです。
盲目的に信じるべき対象は”自分自身”
唯一、盲目的に信じる対象は”自分自身の可能性”だけで良いのです。
僕も 自分自身の「自分自身の手で稼いで 自由な人生を送りたい!俺ならできる!」という 具体的な根拠の無い自信と決意を 盲目的に信じてみたからこそ、自由な人生を過ごすことができています。
そして、現段階では信用に足る人間でない自分であったとしても、これから”自分自身からの信用に足る人間”になればよいのです。